人魚に会える日

浮世離れ

2016年03月12日 23:34

朝、起きて洗濯をして、家を出て

牧志経由のバスに乗り、

桜坂劇場へと向ったのである。

映画「人魚に会える日。」を観に行った。

主人公は高校生だ。

とにかく基地問題の台詞が多い、

反対とか賛成が行ったり来たりするのである。

主人公の一人である少女「ユメ」の

「分からない」という言葉が印象的だった。

物語は基地問題をモチーフにした、

ミステリアスファンタジーという感じであった。

その幻想的な要素も含めて、

リアリティのある映画だと思ったのである。

高校生という大人でもないが、もう子どもでもない若者の

リアリティがそこにはあったのである。

仲村リュウゴ監督は二十歳なのである。

僕よりもひとまわりも年が若いが、

そこで描かれる若者の姿に僕はとても感じるものがあったのである。

映画とは人それぞれ様々な見方があるが、

僕は映画を見終わって考えてみるのである。

「人魚」とは何なのか。

「ジュゴン」なのか、「生け贄の少女」なのか。

沖縄がこの出口の見えない基地問題の中で、

永遠に続くように思われる基地を挟んだ対立の中で、

全てを解決し、平穏をもたらしてくれる「人魚」を

求めているのも、また真実なのだろう。

最終的にこの映画は基地問題を

どうのこうのという映画ではなかったが、

この映画自体が、映画の中で描かれる「ジュゴン」のような

存在に思えたのである。

間違いなく、沖縄近海を泳ぐジュゴンは、

基地問題を危惧してはいないし、心配もしていないのである。

もしかしたら、例え、基地ができても、

その側にエサさえあれば、泳いで食べにくるはずである。

その無邪気なジュゴンは、

沖縄の「分からない」を連呼する少女の姿に重なるのである。

沖縄の若者のリアリティを描いたというところでは、

二十歳の監督にしか撮れない映画であったし、

二十歳の監督が撮ることで映画の説得力が増すのである。

監督はなかなかスポンサーが集まらず

苦労したと話していたが、

確かに、基地という複雑な問題が取り上げられるだけに

企業がつきにくいのも事実だろう。

それを考えると、

その状況でもこの映画を完成させ、上映までもっていった、

監督のストーリーのほうが、よりドラマチックにさえ思えるのである。

映画を見終わった僕は、

そのまま国際通りを歩き、久茂地のほうに進んだ。

土曜日ということで人も多く、観光客もたくさんである。

道を歩いてると、内地の人のしゃべり声も聞こえるし、

中国語も聞こえれば、韓国語も聞こえる、

欧米の人もいっぱいいる。

その中に、沖縄の人が混じっている感じである。

県民広場では、ノボリが立っているのが見え、

人もたくさん集まっていたので、

基地反対の集会かと思ったら、

ノボリには、「沖縄タイムス」「琉球新報」に×がされていた。

さらに別のノボリには「私たちは日本人です」

というようなものもあり、

近くには翁長知事の写真に×が付けられたポスターや

習近平中国国家主席の写真に×が付けられたポスターもあった。

どうやら国家主義の方々の集まりのようだと思い見ていた。

中で叫んでる声を聞くと、どうやら内地の人のようで、

たくさん人がいるなぁと、しばらく見ていたら、

集まっていた人達がどんどんバスに乗っていき、

結局そこには、4、5人が残ったのである。

集まっていたのは、修学旅行生の団体だったようだ。

内地から来たであろう、高校生の彼らは、

この沖縄の様子を見て、何を感じるのだろうか。

沖縄の県庁前の県民広場で、

「沖縄の人は日本人です」と叫び、県知事を批判する内地の人、

そして、そこに集合場所として集合している内地の修学旅行生、

そして、それを道を挟んで見ている僕。

思えば、映画では内地的な視点は一切無く、

内地の人が出てくることもほとんど無く、

すべて沖縄の人々の視点のみで描かれていた。

それを考えると

僕が帰りに歩いて目にした国際通りや、

県民広場での様子などの、

この現実こそ、十分にファンタジーだなと思いつつ、

僕はまた歩き出したのである。